世の中には古今東西、様々な教訓や教えがある。その一つ一つを見ていくと素晴らしいものが多いとは思うのだが、矛盾しているものも多数存在する。
例えば「三度目の正直」三度目にはうまくいく、という教訓である。しかし、「二度あることは三度ある」という教えも存在する。
「蛙の子は蛙」に対して「鳶が鷹を生む」、「馬鹿の一つ覚え」に対して「一芸は道に通ずる」、「好きこそ物の上手なれ」に対して「下手の横好き」、論語の「君子危うきに近寄らず」に対して「虎穴に入らずんば虎子を得ず」など、挙げると思いの外たくさん見つかる。
このようなことが起こる理由を思索すると、その時々の状況によって正しい道筋は違う、ということが分かる。物事には臨機応変に対応せねばならないということだ。
また、究極の真理というものは、言葉やカタチにすることができないため、表現した時点で方便と化してしまう。様々な角度から表現された古今東西の方便は、その本質を見抜けば、一致している部分を探り当てることができる。
場所も時代も違う二つの思想がある。一つは、哲学者カントが提唱した純粋理性批判。もう一つは、仏教教典において最も有名な般若心経だ。これらは多くの共通点を蔵しており、仏教思想の「空」と、カントが言う「物自体」は、同じ次元の概念であろう。
まず、それぞれの入り口に触れてみよう。目的は共通点を見出すことなので、浅い理解で誤った解釈もあるかもしれないが、ご容赦いただきたい。正確に理解したい方は、それぞれの専門書を読むことをお薦めする。
カントの哲学は批判哲学と言われている。それは、真実を追求するために必要なことであり、証明するための批判だと言える。
その哲学は二律背反という、相反する二つの矛盾点からはじまる。二律背反をアンチノミーと呼び、四つのアンチノミーを提唱している。細かいところは省略し端的にまとめた。それぞれに肯定と否定、テーゼとアンチテーゼがあり、アンチテーゼを()内に記した。
1、世界は時間・空間的に有限である(↔︎無限である)
2、世界のどんな実体も単純な部分から成る(↔︎単純なものはない)
3、世界には自由になる因果性もある(↔︎全ては必然)
4、世界の因果系列に絶対的必然的存在者がいる(↔︎偶然もある)
これらのアンチノミーを解決する答え、即ち矛盾を超えた真実、宇宙の様々な現象の正体を「物自体」として見出した。
それを捉えるものが純粋理性である。
一方、般若心経は大乗仏教の教典であるものの、作者は不明。サンスクリット語の原典が存在し、多数の翻訳者がいる。
最も有名なのは、玄奘三蔵であろう。西遊記に三蔵法師として女性の僧侶が登場するが、玄奘は男性である。次いで有名なのは、鳩摩羅什。羅什三蔵と呼ばれ、どちらも「三蔵」という号を贈られている偉大な僧侶であり翻訳者である。
そして、カントが批判哲学を提唱するのに対し、般若心経では小乗仏教を批判している。
般若心経を読み解く上で、玄奘と鳩摩羅什の訳を基本とし、さらに所々サンスクリット語の原典を参照したが、原典にもいくつか違い-写し間違いかもしれない-が見受けられる。
タイトルから二者の訳は少し違う。玄奘は般若波羅蜜多心経、鳩摩羅什は摩訶般若波羅蜜大明呪経と訳している。この二訳が重要で、意味を補い合ってくれている。
原典は、プラジュニャー・パーラミター(「智慧」という完成)・フリダヤ(心・真髄・心咒・真言)・スートラン(経)。
多くの現代語訳では、心経を「心のお経」、即ち「とても大事な真髄の教え」などと訳されているが、おそらくは「咒の経」であり「真言の経」というのが正しかろう。
つまり、呪文=真言について書かれた経であり、重要な部分ではあるが色即是空がメインではない。
中身に関しては、観自在菩薩が舎利子へ説法をしていると言うのが通説であるが、ノーマルな現代語訳は僧侶や学者に任せ、あえて異端に「舎利子と観自在菩薩のやりとり」として見てみよう。
さして内容を理解するのに問題はなかろう(補償はできないが)。
ちなみに「舎利子は仏弟子全般を指す」という現代語訳者がいる。鳩摩羅什の訳では舎利弗と書かれており、サンスクリット語でもシャーリプトラと名指しで書かれているので、舎利子は釈尊の十大弟子の一人、智慧第一の舎利弗(シャーリプトラ)であることは間違い無いだろう。仏弟子全般を指すと言っている訳者は、般若心経の玄奘訳の漢文しか読んでいないのだろう。現代語訳を読む際には参考にしていただきたい。
他にも面白い意見がある。小乗仏教は大乗仏教に対してできた言葉であり、本来は上座部仏教と言う。ある上座部仏教の長老が、般若心経を否定している。
舎利弗は仏弟子であり、すでに悟りを開いているため、阿羅漢と呼ばれる位にある。声聞、縁覚、菩薩の順に位が上がり、その上に位置するのが阿羅漢である。観自在菩薩は菩薩であり、舎利弗よりも位が低い。よって、観自在菩薩が教えを説いているのではなく、舎利弗が観自在菩薩に対して教えを説いているのだと言う。
この批判はかなり苦しい。大本の流れを見ると、その解釈は成り立たないことが分かる。
般若心経は、数ある教典の中でも最大の、六百巻ある大般若経から抽出したものであると言われ、大本と小本からなる。一般に読誦されるものは小本であり、一般的に経典に描かれる背景が省略されている。
大本の冒頭は、世尊(釈尊)が霊鷲山の説法処にて比丘や菩薩と共にあり、三昧(瞑想)に入っており説法はせず、会衆の中にいた釈尊の弟子「舎利弗」が、般若波羅蜜多における行を行っている観自在菩薩に、行の実践について尋ねるところからはじまる。
この内容によって、やはり仏弟子全般を指してはいないこと及び、舎利弗が説いていると言う批判も間違いであることが分かる。
前置きが長くなったが、ここから般若心経の解説をベースに、カントの哲学を比較してゆこう。
一般的に読誦されるものは次の通り。
般若心経の全文であるが、このままでは少々分かりにくい。
まず、解説をするにあたり、分かりやすく独自にパート分けをした。
1、仏説〜受想行識亦復如是
2、舎利子是諸法空相〜以無所得故
3、菩提薩埵〜阿耨多羅三藐三菩提
4、故知般若波羅蜜多〜般若心経
以上の4つに分けて読み解いてゆく。
また、パート分けしたそれぞれの章は次のようなテーマで分類される。
1、テーゼ(前提の意見)
2、アンチテーゼ(反対の意見)
3、得られる結果(どうなるの?)
4、至る方法(どうするの?)
登場するのは、観自在菩薩、舎利子、菩提薩埵、三世諸仏。これらが主語となっている。
さらに、引用する漢文を、分かりやすいように「・」で区切ることにする。順番に解説しよう。
1、テーゼ(前提の意見)
/仏説〜受想行識亦復如是
仏説・摩訶(仏が説いた偉大なる)
日本で独自に付け加えられたものだろう。
玄奘三蔵ゆかりの寺として知られる、中国の大慈恩寺。ここを訪れた時にあった石版には、仏説も摩訶も付いていなかった。
般若波羅蜜多・心・経(「智慧」という完成に至る真言の教え)
これは前述したので省略するが、タイトルである。
観自在菩薩(主語:観音菩薩)
行・深般若波羅蜜多・時(最上の「智慧」という完成に向かって行をしている時)
照見・五蘊・皆・空、度・一切苦厄(五蘊はみな空しいものだと見極め、一切の苦厄を乗り越えた)
舎利子(主語:A論を述べる舎利弗)
ここで、舎利弗が述べる内容は、後に出てくる舎利弗の意見と違うためA論とする。
色不異空・空不異色(色は空性に異ならず、空性は色に異ならず)
色即是空・空即是色(色は即ち空性であり、空性は即ち色である)
受想行識・亦復如是(受想行識もこのようである)
ここでの内容は、先に観音菩薩が述べた内容に対して「〜ということは、こういうことです」と補助する役割を果たしている。
ちなみにA論の内容は「華厳」のメインテーマでもある。
馴染みのない五蘊という語句について説明しよう。この五蘊がカントの純粋理性の哲学と一致するのである。
五蘊とは人間の認識作用を5つに分けたものであり、鳩摩羅什は五陰と訳している。色、受、想、行、識の5つの蘊(集まり)を表す。
色とは、世の中の物事全般、現象を指している。受は、色を感じとる作用。想は、感じたものを思い浮かべる作用。行は、それらを受けて生まれる意思の作用。識は、総合的に判別・識別する作用のことである。
分かりやすく例えると、目の前に大好きなリンゴがあるとする(色)。「リンゴがあるな」と感じとる(受)。「美味しそうだな」と思い浮かべる(想)。「食べたいな」と意思が働く(行)。「でも勝手に食べるのは良くない」と判断する(識)。大雑把にはこのような流れである。
このような一連の作用が、瞬間的に全て起こる。
認識作用の前提には、色の存在が必要不可欠であり、さらには色の存在の根本として空がある。空は無と違い、存在する。しかし、空を認識することはできないため、現象世界においては存在していないようなものだと感じられる。
空はサンスクリット語ではスーニャと言い、「空しいこと」と訳され、スーニャター(空性)と分けて記されている。原典では「空」を仏教独自の概念としては捉えられておらず、空しさや空性として書かれている。漢訳される際に空の概念が生まれたのであろうか。どちらにしても日本において、意味を理解できているかははさておき、広く知られる言葉となった。
それは実体が無いわけではなく、実体を超えた実体、超実体とでも呼ぶのが相応しかろう。色の本質は空、超実体なのである。
一方、カントは「物事の現象を捉えるのは人間の感性である」と言う。
時間と空間の概念がある現象世界において直観することができる。時間と空間は、人の主観の概念でしかない。アインシュタインの相対性理論が出される前から、時間と空間は絶対的なものではないと気がついていたのであろう。
感性で直観した次に、悟性という論理的判断が物事を捉える。さらに理性-一般的に使う理性とは違う解釈。普段我々が使う理性は、カントが言う語性に近い-によって、意思決定を行い、その最たるところを純粋理性と呼んでいる。
純粋理性はアプリオリな判断を下す。アプリオリとは先天的な認識能力であり、要は「下心のない意思判断」である。
例えば、カントはキリスト教における「与えよ、さらば与えられん」という教えを批判する。「人がされて嫌なことを、人にしてはいけない」とか「人からされて嬉しいことを人にも施しなさい」という考え方であるが、「人から良いことをされたいから自分も良いことをするのか?」と、その前提には「良い報いを受けたい」という下心があるゆえに、それは純粋な判断、即ちアプリオリな判断ではないと提言する。
となると、アプリオリな判断において、多くの教訓は批判の対象とならざるを得ない。「嘘をついたら閻魔様に舌を抜かれるぞ」という戒めは、「舌を抜かれたくないから嘘はつかない」となってしまう。
要するに、アプリオリな判断とは、純粋にただ「嘘はつかないでおこう」とする、先天的な道徳観念によって行われる意思判断を指す。
そして、物事の現象には、その本質たる「物自体」があると断言する。
これが仏教思想の「空」に当たる。
その違いは、「物自体」はある特定の物事に関して使われているのに対し、「空」は世の中全般において使われているところである。
これは西洋哲学と仏教思想の違いとも言えそうだ。
唯識論における阿頼耶識という概念は、ユングの集合意識とほぼ同じである。両者は、全般に対してなのか、または特定の範囲においてなのか、という違いであるからだ。
2、アンチテーゼ(反対の意見)
/舎利子是諸法空相〜以無所得故
舎利子(主語:B論を述べる舎利弗)
是・諸法・空相(世の中の全てには空の性質がある)
不生不滅(生まれることも滅することもなく)
不垢不浄(垢がつくことも浄まることもなく)
不増不減(増えることも減ることもない)
ここまでは「三論」のメインテーマを批判している。
ちなみに不増不減などは、ヒンドゥー教の聖典ウパニシャッドにおいて、アートマン(個我)とブラフマン(宇宙我)が主体と客体の分かれる前の、混沌たる世界を表す時に用いられる表現である。
是・故・空中(ゆえに空には)
無色・無受想行識(色も無く、受・想・行・識も無い)
無眼耳鼻舌身意(眼・耳・鼻・舌・身・意も無い)
無色声香味触法(色・声・香・味・触・法も無い)
無眼界・乃至・無意識界(眼界〜意識界も無い)
眼界〜意識界というのは、眼・耳・鼻・舌・身・意の感覚器官である六根と、その対象となる色・声・香・味・触・法の六境、この根と境によって生じる眼・耳・鼻・舌・身・意の六識を合わせた十八境界を表す。
これらは「法相」のメインテーマ。
無無明・亦・無無明尽・乃至(無明も無い、また無明が尽きることも無い)
無老死・亦・無老死尽(老いて死ぬことも無い、また老死が尽きることも無い)
これは十二因縁の否定。無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死のこと。無明によって行が生じるという関係性を観察し、行から生や老死という苦が成立すると知ることを順観と言い、無明が消滅すれば行も消滅するという観察を逆観と言う。
無苦集滅道(苦集滅道も無い)
苦諦、集諦、滅諦、道諦を合わせて四諦。苦しみの原因は執着(集)にあり、それを滅するためには道をおさめる必要がある。その道とは八正道(正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定)である。
ここまでで、小乗仏教の伝統教理を批判している。
無智・亦・無得・以・無所得・故(-以上の事柄から逃れる方法を-知ることも得ることも無い、得るところが無いゆえに…次へ続く)
最後に「天台」のテーマである。
また、冒頭の空相と空中に関して、それぞれを一つの単語として捉えると面白いと思ったのだが、サンスクリット語の原点を見ると、空(空性)、相、中は独立した語として書かれており、そうではないことが分かった。ゆえに、空相は「空の性質」、空中は「空においては」と捉えるのが良かろう。
相はおそらく、体(本質)・相(その性質)・用(その働き)という、仏教用語であると解釈しておく。
以上で、テーゼとアンチテーゼが出揃ったわけだ。
まず、観音菩薩が前提としてのテーゼを打ち立てる。それに対して、舎利弗がアンチテーゼを述べる。要は、観音菩薩は人の認識作用は空であると提唱したのに対し、舎利弗はB論として「これまでの教えは無ということか」と述べる。
それらを繋ぎ合わせる役割として舎利弗のA論があり、これが最も重要なアンチノミーに対する答えであろう。
観音菩薩は、空の視座から現象世界を観て、それらは本当は空なのだと説いている。舎利弗のB論は、色の視座から真理の世界、即ち空の世界を観て、そこにはこれまでの一切の現象界のルールは適用されないのだと述べている。
視座の違いに着目しなければ、同一経典内の矛盾に惑わされてしまう。
その中間地点-カントはゼロ地点と言う-から、舎利弗は色即是空という、アンチノミーを解決するA論を展開しているわけだ。
さすがは智慧第一の舎利弗。私たちに理解できるように、解説者の役割を果たしてくれている。
そもそも、観音菩薩が舎利弗に語りかけているという背景を伝えるだけであれば、舎利弗が一度登場すれば済むわけで、エッセンスを抽出した短い般若心経に「なぜ舎利弗が二度も登場する必要があるのか」と考えた。それをキッカケとして、一度目の論と二度目の論の相違点に着目し、舎利弗がただただ無駄に二度登場しているわけではないと、その意味と必要性を担保することができたように思う。
世の中のあらゆる法則性の矛盾を通して、アンチノミーが発生する。
そして、カントは現象界(色の世界)における法則と、真理の世界即ち英知界-物自体界と表現している-(空の世界)における法則は別物だと捉えた。
世の中の物理法則、時間と空間の概念、因果律などは現象界には適用されるが、それらは絶対的なものではなく、それ以外の何かによって相対的に保証されているものである。その「何か」を超越論的対象=X(物自体)と表現し、現象界の法則が適用されない世界、実体を超えた超実体が存在することを見事に証明した。
物自体界においてアプリオリな判断はなされ、その判断をするのが純粋統覚である。それによって、「世の中に偶然はなく全ては必然である」という法則を超えて、「自由(ミズカラニヨル)」即ち自ら意思決定を下し、責任を負うことで変えられる運命の実現を可能にさせる。
さらに世の中の矛盾を打ち破る「人間は両方の世界に跨って存在している」という第三の案、ゼロ地点からの真実を導き出したのである。
仏教の色の世界(世間)には、諸行無常(永遠のものはない)・諸法無我(すべては関わり合っている)などの法則が働き、苦集滅道があり、生滅・垢浄・増減を繰り返す、五蘊によって認識される現象世界がある。
空の世界(出世間)では、それらの法則は無く、涅槃寂静(静かな悟りの境地)の世界であり、空という超実体が存在している。
現象界をすべて否定することで、空(超実体)を顕現させようとしているのであろう。
カントは「真理は仮象によって隠されているゆえに“仮象批判”の形を取らざるを得ない。虚妄や欺瞞を暴露するには、それらが自己矛盾を孕んでいることを指摘すればよい」と言っており、さらに「自己矛盾とは、両立しえない二つの主張が、同一の主体によって同時に提出される」と言う。その理論は、観音菩薩、舎利弗のA論、舎利弗のB論による般若心経の論述展開と見事に一致する。
ここまでが、般若心経の前半であり、カントの哲学と一致するところである。
一致点を紹介するための本論考ではあるが、般若心経の後半部分も最後まで見てゆこう。
2の最後、以無所得故(得るところが無いゆえに…)から続く
3、得られる結果(どうなるの?)
/菩提薩埵〜阿耨多羅三藐三菩提
菩提薩埵(主語:菩薩全般を指す)
依・般若波羅蜜多・故(「智慧」という完成に依るゆえに)
心・無罣礙(心に迷いが無くなり)
無罣礙・故(迷いが無いゆえに)
無有恐怖(恐怖も無くなる)
遠離・一切・顛倒夢想(一切の良くない逆さまの考えを離れ)
究竟・涅槃(静かな悟りの境地へ至る)
三世諸仏(主語:三世即ち過去・現在・未来の諸如来)
依・般若波羅蜜多・故(「智慧」という完成に依るゆえに)
得・阿耨多羅三藐三菩提(無上の正等覚を得る)
ここでは、前半の空を感得することで何を得られるのかを説明している。
修行中の菩薩であれば、静かな悟りの境地を到ることができ、修行を終えた如来であれば、さらなる最上の境地を得ることができるということだ。通常の幸福、最上の幸福とでも区別すれば良い。
どんな位のどんな立場の者であろうと、その恩恵を受けることができる。
例えば、素晴らしい本を読んだ時、自分が未熟であってもそれなりに活用できる。しばらく経ち、成長してから改めて同じ本を読み返すと、理解できる内容がさらに深くなっている。良書と言うのはそういうものであるが、般若心経の功徳はまさにそういった性質を持っているのであろう。
最後のパートは、通常の感覚では理解し難いので、弘法大師の著した般若心経秘鍵を参考にする。
空海の著述の特徴として、三教指帰、秘蔵宝鑰と十住心論、般若心経秘鍵などはどれも他の教えを批判した上で、仏教・真言密教の真髄を説いている。
これもまたカントの批判哲学と共通するところであろう。
般若心経秘鍵では、次のような区分けがされている。
ここで気づいたことは、冒頭の「度一切苦厄」は後半の「能除一切苦」に掛かっており、五蘊を皆空と照見することと、真言による行法が関連しており、一切の苦しみから解放されるという点で一致していることである。
冒頭の伏線が、終盤でしっかりと回収されているのである。
4、至る方法(どうするの?)
/故知般若波羅蜜多〜般若心経
故・知・般若波羅蜜多(ゆえに「智慧」という完成を知るべし)
是・大神呪(これ、大いなる真言なり)
是・大明呪(これ、大いなる明知の真言なり)
是・無上呪(これ、無上なる真言なり)
是・無等等呪(これ、比類なき真言なり)
能・除・一切苦・真実不虚・故(よく一切の苦を除き、虚しからず真実であるゆえに)
説・般若波羅蜜多呪(「智慧」という完成の真言を説く)
ここまでで各真言が解説されており、般若心経秘鍵には、それぞれを声聞(大神呪)、縁覚(大明呪)、大乗(無上呪)、秘蔵(無等等呪)の真言として明記されている。
即説・呪・曰(真言を説いて曰く)
羯諦(到ることよ)
羯諦(到ることよ)
波羅羯諦(悟りに到ることよ)
波羅僧羯諦(悟りに共に到ることよ)
菩提薩婆訶(悟りよ幸あれ)
般若心経(締めのタイトル、、サンスクリット語の原点では基本は最後にタイトル)
最後にその真言が記されている。
これを唱える功徳によって、空を感得し、一切の苦厄を超越し、悟りの境地へ到ることができる。
ただ唱えれば良い、というわけでは無いところがポイントだ。三密(身密・口密・意密)を一致させることが必須である。密教では、「印(手を結ぶ作法)」と「真言」と「心に念じること」の三密が求められる。
これは即ち、行動と言動、意識することを一致させることである。
それぞれは、行業、言業、意業という業(カルマ)を生み、善悪ひっくるめて全てを空の世界、阿頼耶識に蓄積する。中でも意業は特に大きな影響を与える。
ゆえに良い行いを実践しようとも、下心があると、同等かそれ以上の悪業を蓄えることになってしまう。
三文の得をするからといって早起きをするのも、自分が良い結果を欲するために他者に施しをするのも、ズレているのである。
空海の即身成仏儀において「三密加持すれば速疾に顕わる」という一節がある。三密を一致させれば即身成仏できる、即ち悟りを開き、この身このままで仏になれると言っているわけだ。
言行の一致はわりと簡単に実践できそうだが、心は揺れたり、下心が芽生える。カントが言う純粋理性による判断、アプリオリな判断を行いつつ、言行一致させることが、真理を感得する道なのであろう。
以上のようなことを頭で分かっていても、なかなか実践できないのが人の常である。そんな困難な道程を、近道させてくれる真言のような言葉が日本にある。
「ありがとう」感謝の言葉だ。
ありがとうの言葉を発する時、ほとんどの人は下心なく、純粋に相手に感謝を伝えたい時ではないだろうか。まさにアプリオリな判断による行動なのである。
意図的にではなく、感謝の気持ちが自然と溢れてきた時に発せられる「ありがとう」は、笑顔という身密、言葉の口密、感謝の想いである意密の、三密加持の状態を達成させる。
日本には言葉に魂が宿るという言霊信仰があるが、「ありがとう」の言霊は密教の真言にも通じるところがある。というより、真言とは「真実の言葉」即ち「嘘偽りのない言葉」であるなら、真言そのものであろう。
人生における一切の行動・言動を、純粋理性によってなされる時、神仏の加護を受け、阿耨多羅三藐三菩提を生きることができるだろう。