自分らしく幸せな人生を送るために、シゴトは切っても切り離せない。
食うための仕事のことだけを言っているのではなく、物理用語の"仕事"の方が本質を捉えているように思う。
「物体の持つエネルギーを変化させること」
人間が持てるエネルギー(才能・価値等)を変換し、世に放出することこそが仕事であると言えよう。
"仕事"に限らず、"シゴト"について3つの意味づけをして考えていきたい。
それは、私事、仕事、志事の3つである。
まず私事。3つのシゴトのそれぞれは、さらに3つの要素から成り立つ。
自分自身をしっかりと確立する礎となる。要は偽りのない自分自身であることから始まる。
「思うこと」「言うこと」「やること」を一致させるのである。
「思うこと」とは、カントがいう純粋直観であり、思考のことを指す。すなわち見返りを求めたりしない、下心のない"純粋な思い"である。下心の働いている思考とは全く違う。
例えば、「あの人に優しい言葉をかけてあげたい」という思いがあるとき、その中に「好かれたいから、気を引きたいから、周りに良く思われたいから」などと下心が一切なく、純粋にただ「優しい言葉をかけてあげたい」と思考を通さずに思う、"思うこと"である。
次に、「言うこと」はそんな思いを言葉に変え発言すること。
そして、「やること」は行動へ移すこと。
ただ純粋に「優しい言葉をかけてあげたい」という思いを、言葉で発し、行動に移すことである。
こうして、思いと言行の一致をさせてなくてはならない。
下心ある思考をベースに活動していると、自分自身の中に解離があり、人間が持つ本来のエネルギーは発揮できない。自分はボールを投げたくないと思っているのに、親が期待しているから無理にでも投げるようなものである。それでは真価は発揮されない。
これが言うほど簡単にいかないと思うかもしれないが、非常に重要なのだ。
密教では三密加持と言い、身密(印を結ぶ)、口密(真言を唱える)、意密(心で観想する)を一致させることが即身成仏への道だと説かれている。身密は行動、口密は発言、意密は純粋な思いや考えと符合する。
これが、まず一つ目のシゴト、私(本来の自分自身)を生きるということである。
そして、2つ目のシゴト。これは最も馴染み深い「仕事」である。
まずは自分自身の「好きなこと」をしっかりと把握するところから始まる。
これは「経験」によって掴んでいく他ない。
自分が何を好きかわからないと言うのは、言わば「経験の食わず嫌い」である。
チョコケーキが好きな人も、チョコケーキを食べたからこそ好きだと感じることができる。チョコケーキを好きだったとしても、食べたことがなければ好きだとは分からない。さらに、様々な種類のチョコケーキを食べることで、どのようなチョコケーキが好きなのかどんどん鮮明になっていくものだろう。
現代では過保護な教育が蔓延し、子供に危ないことをさせない、人に迷惑のかかることをさせない、将来役に立たないことはさせないなど、子供が経験する機会を奪う親が多い。その結果として、いざ社会へ出ようとする時、「自分が何をしたいのか分からない」という緊急事態が発生してしまう。
自分が何を好きなのか分からなければ、経験によって知っていくしか近道はない。自分の好みを知ることから、仕事は始まっていく。
次は「得意なこと」を知る。これは、才能と言える部分でもあり、好きなこととは違う。好きでなくとも得意である場合があるからだ。
パソコン作業が好きなわけではないのに、人よりも優れていたりする、そんなことは珍しくはないだろう。
これは、人との関係性によって浮かび上がってくる。パソコン作業をする人が、この世に一人しかいなければ、そこに好き嫌いはあっても、得意なのか不得意なのかは分からない。
人が苦労するようなことを、自分は当然のようにやってのけたりできることがある。そいういったことが「得意なこと」を見極める要因になる。
そして、有用性すなわち「役に立つこと」を知る。
誰も求めて求めていないことは仕事にはなり得ないからである。どれほど凄いことが出来たとしても、誰一人それを求めていなければ仕事にはならない。好きなだけ、得意なだけでは仕事にはならず、需要があることは絶対条件である。
ちょっとした頼まれごとやお願いごと、そこへしっかりと耳を傾けるだけで需要は見えてくる。全世界すべての図書館にある本を全て読むのは一生かけても出来ないように、世の中の需要全てに自分一人が応えられるわけもない。
大切なのは、自身が関わることのできる「縁ある範囲」に限定して、その需要を知り、応えていくことである。
以上の3つの要素によって誰かのため何かのために仕えること、これが「仕事」となる。
こうして創った仕事は、ブルーオーシャン(魚のたくさん釣れる海をマーケットに例えた飽和していない市場)を求め続けて彷徨うこともなく、レッドオーシャン(飽和した市場)となった海で競争することもなく、ブラックオーシャン(誰もいない深海、競争相手のいない独占市場)にて悠々仕事することができるのである。これは、業界や業種ではなく、自分自身の仕事に対する"あり方"である。
最後の「志事」は、さらに大きなところへ、"道"へ進んでいく事である。
まず、「精神性」を高め、倫理観や道徳観を養い磨き上げていく。
これは人間の究極的理想であるギリシャ哲学の真善美、そのうちの「善」にあたる。
さらに、「理想」を描くこと。これは、達成するべき目標ではなく、人生の大目的とも言えよう。理想は常に目の前にあり、かつ最も遠くにあもの。
これは真善美の「真」にあたる部分で、真理を深く追求していくことは同時に理想を求めることにもなる。
そして、文化を紡いでいくこと。この世のすべては繋がりなくして存在し得ないことを諸法無我という言葉で表されているが、繋がりを絶やさないことは結果として「歴史」をつくり、知ることになる。
以上の3つが志となり、未来へと向かっていく「志事」なのである。
この3つは、民族学を研究していたイギリスの歴史学者アーノルド・トインビーが挙げた、民族が滅びる条件に合致する。
それは、心の価値を見失い、お金や物の価値に偏ってしまった民族は滅びる。理想を持たない民族は滅びる。自国の歴史を知らなくなった民族は滅びる、というもの。どれか一つでも当てはまる民族は例外なく滅びるのだとか。
逆を言えば、この3つの条件を整えていれば、少なくともトインビーの理論上において、その民族は永続的に繁栄し続けるということになる。
さらに、以上の3つを日本で育んでこれたのは、儒学が道徳や倫理観である「精神」、仏教が究極の真理と人生の目的である「理想」、神道が日本の風習と信仰、文化である「歴史」に対応している。
聖徳太子は1000年以上昔から、神仏儒を敬えと説き、人類反映の道を示していたのである。
そこに加えて、密教は仏教と神道を合わせる接着剤のような要となり、神仏習合なる文化が生まれたのも密教なしにはあり得なかった。
キリスト教に関して言えば、日本人の原点はユダヤにあり、その歴史を記した書物が旧約聖書であり、人類の戒めや指針が収められている。だからこそ、儒学という倫理観を達成することを可能にし、歴史である神道と道徳精神の儒学を結びつけているのは、聖書なりその価値観であると言えよう。
そういったものを引っくるめ、和合させて出来上がっているのが日本人の精神であり、大和魂と呼ばれるものの根幹であり、岡潔のいう日本の情緒、縄文人にあったとされるD1a2のDNA、日本古来からの清き明き心といったものに通じていると確信している。
こういった価値観や精神性を実践することこそが「和の情」なのである。
3つのシゴトによりなされる活動は、まさに「遊び」であり、人間にしかできない、自分自身にしか出来ない独自の創造である。さらに関わり合う人々がその力を発揮し合うことによって、一人では出来ない「大きなこと」を共に創り上げる未来が実現する。
テキトーに、そのステップをワークシートにしてみるとこのようになる。
もう一つ、「十牛図」について。
「禅の十牛図」
中国の宋の時代の禅の入門書であり、十牛図は、悟りにいたる10の段階を10枚の図と詩で表したもの。
内容に関してはネットや書籍でたくさん解説が出ているので、解説は概要を抑えるだけにとどめ、独自の解釈と、自身の生き方に重ねた気づきをまとめておきたい。
1.尋牛(じんぎゅう)
牛を探すため、旅に出かける。
本当の自分を求める物語がここから始まる。
2.見跡(けんせき)
牛が見つからないとあきらめかけたとき、牛の足跡を見つける。
教えを学び、手がかりを見つけた状態。
3.見牛(けんぎゅう)
牛の後ろ姿を発見するが、捕まえるにはまだ距離がある。
自分自身の目的を見つけ、ここからさらに成長していく。
4.得牛(とくぎゅう)
縄をかけて牛を捕らえたが、逃げ出そうと暴れる牛との格闘。
目的地に辿りついたが、気を緩めた途端に見失ってしいまう状態。
意識してできるから、意識せずともできる、言わば習慣へと昇華していく必要がある。
5.牧牛(ぼくぎゅう)
暴れる牛を手なづけて、自分が縄で牛を引っ張っている。
行き着いた境地に慣れつつも、油断をすると逃げられてしまう状態。まだ気は抜けない。
6.騎牛帰家(きぎゅうきか)
おとなしくなった牛に乗り、横笛を吹きながら家路につく。
真の自己と自分自身が一つとなり、目的は成し遂げられた。
7.忘牛存人(ぼうぎゅうぞんじん/ぼうぎゅうそんにん)
家に帰り着き、牛のことは忘れ、姿は見当たらない。もともと牛と人は別物でなく、一つである。
真の自己ははじめから己の内にあったのだと気付かされる。
8.人牛倶忘(じんぎゅうぐぼう/にんぎゅうぐぼう)
牛のことを忘れただけでなく、自分をも忘れ去ってしまう。
自分自身も真の自己もすべては空であり、悟りでさえも忘れなさいと説かれている。
9.返本還源(へんぽんかんげん/へんぽんげんげん)
元に戻り、始まりに還る。どんな人も生まれた時はくもりなく清らかであった。
本来の清らかな心で世界を見れば、ありのままでただ美しいものである。
10.入鄽垂手(にってんすいしゅ)
町に出て、何も飾ることなく出会う人に影響を与えていく。
自然体で特別なことは何もなく、ただ人に幸せのタネを撒いている。
以前に教えを乞うた師に、今度は自分がなる番。
ここで、十牛図は完結する。
そして下図のように、前述の「3つのシゴト」と見事に一致させることができる。
悟りへ向かうということは、本来の自分らしい人生を全うすることなのである。
我欲にばかり執着して本来の自分自身を見失ったまま生きている人が、ある何かのキッカケによって目醒めると、使命感に溢れ、大きな志を持って道を歩んでいく。
そこには利他の精神があり、世のため人のために尽力しながら邁進していくのだが、すべてが思ったように進むことはなく、葛藤や苛立ちが芽生えてしまうもの。さらに深い目醒めによって、我欲の執着を離れ、利他の心や使命感をも手放したとき、一見するとただの無気力状態とも思えるが、気力に満ちた無気力状態のような矛盾した境地へ至る。
童心に帰ってただ遊ぶかのごとく、自分のためでも人のためでもなく、ただ活動しているだけで、結果として関わりある人、さらにはすべての自然生命が幸せになっていく。
そんな境地で生きていると、自利か利他かの矛盾を超越したところに身を置いているため、自分のためとか世のため人のためとかという次元のモノサシでは計りえない。同じ世界にいながら全く別次元の世界を生きているような状態を得ることができる。
十牛図で言えば、10の入鄽垂手の状態なのであるが、ここから主人公はスペシャルモードでの人生がリスタートし、まったく別次元の価値観を持って尋牛から始められるのである。
その物語は何も求めず、ただ遊ぶかのごとく活動しているだけで、目的を成し遂げたとか遂げていないとか、そういった次元を超えた目的なきことを目的とする「合目的的な無目的」状態に陥る。
一般常識的には矛盾に感じられるかもしれないが、超自然体の生き様がそこに描かれていく。
十牛図第二章
言わば、ただ遊びだけの人生「遊牛図」
「間牛」(空間をつくる)
自分自身のありとあらゆる不要なものを削ぎ落とし、空間をつくる。
空間には、何かが勝手に流れ込んでくるもの。
そんな自然法則に抗うことはできない。
「無私」(足跡を見つけても気にならない、無視)
遊ぶのに、失うものは何もなく、得るものさえあっても無くても良い。
どっちでも良い。ただ心から遊ぶことが目的だから。
「居牛」(ああ、なんか居るなぁ)
空間を開けて遊んでいると、自然法則に従って何かが入りたがってくる。
物質世界の後ろで、結晶化したい粒子たちが行列しているかのように。
あれだけ求めていた牛は、勝手に向こうから引きずり込まれてくる状態。
ブラックホールが全てを吸い込むように、自分の空間を開ければ開けるほど。
それでも、来ようが来まいが、得ようが得まいが関係なし。
なんせ遊ぶことが目的だから。
「増牛」(遊び道具が増える)
前は、必死に縄で捕まえたのに、牛の方から縄を「はい、どーぞ」状態。
今までの苦労は何だったのか。苦労しているからこそ味わえるものでもある。
自分にとって捕まりにきた牛は、ただの出来事。
遊び道具が増えただけに過ぎない。
「共牛」(何も求めず共に遊ぶ)
起こる出来事によって、とにかく遊びの幅は広がる。
それでもなお、合目的的かつ無目的な場において、求めるものは何もない。
ただ、遊びが何よりもこの上なく楽しく美味なのである。
以前は、飼いならしはしたが油断できず気の抜けない状態であったが、そんな心配は全くない。
「一牛風流」(一心同体で、ただ風に流されるように)
起こる出来事と一つになり、阿吽の呼吸以上に通じ合い、共に風吹くままに遊ぶのみ。
巻き込み事故のように、巻き込んでは巻き込まれ。
執着がないため、事が起こること事態が幸福バロメーターは全開。
「放牛往来」(放飼の牛は自由に往ったり来たり)
もともと一つであることは既に理解しているため、何かが起ころうが起こるまいが最初からどちらでも良い。
時には離れ、縁ある時にはまた重なり合う。それが全て。
「全牛放任」(何もかも全てどっちでも良い)
出来事やその結果はもちろん、自分でさえもどちらでも良い。
完全無気力と超気力状態のどちらでもなく、矛盾を超えた気力に満ちた無気力状態。
この空間に何かがやってくるかもしれないし、何も起こらないかもしれない。
すべては風まかせ。
「自然一番」(やっぱり自然が一番)
ありのままで美しいのは一章ですでに気付いているが、やはり自然にかなうものなしと再認識あるのみ。
「変人同士」(変人同士が共感してともに遊ぶ)
狂ったようにさえ思える、合目的的な無目的を生きるただの遊び人たる奇人変人は、類は友を呼ぶかの如く遊び仲間を増やしていく。
さらなる遊びを求めて創られるものは、予測もできず想像もつかない。すべては自然のあるがままに。
こんな風に、十牛図第二章へ突入すれば、もう何が起こるか分からず、それだけで楽しい遊びと創造が待っている。
そして、この旅には終わりも始まりもない、ただ螺旋を描きながら永劫続いていくのかもしれない。
虚空の蔵の鍵を開け放ち、無尽蔵に創造されるかの如く。